塚原古墳群と火の君(肥の公)

陣内廃寺は火の君一族の氏寺か

 

 

        

塚原古墳群と火の君

          塚原古墳群


            塚原古墳群とは
 熊本市南区城南町塚原には、4世紀末~7世紀前半にかけて築造された、県内最大の古墳群が存在する。熊本平野の南端に位置し、浜戸川と支流が形成する塚原台地の標高約30mの地点に営まれた古墳群である。江戸時代の地誌「肥後国誌」に「塚原村に九十九塚有り」と記され、その存在は古くから知られていた。
 そこに、九州縦貫自動車道の建設に伴う予定地が当たることから、昭和47年より事前の発掘調査が行われたが、この調査が行われるまで、前方後円墳の琵琶塚古墳、花見塚古墳を中心とした10基程度の小さな古墳群と思われていた。
 ところが発掘調査を進めていくと古墳が次々と出現し、その結果、方形周溝墓39基、円墳・小円墳34基、前方後円墳1基、石棺18基、石蓋土拡1基と当初想定もしなかった多数の古墳が用地内で発見され、この内の77基が復元されている。この様な多種多様な古墳が存在する事にこの古墳群の特色がある。
 これだけの古墳群は熊本県下において他になく、 現在確認されている古墳は200余りであるが、まだ300程の古墳が周りの地下に眠っていると推定されている。このような事が明らかになると全国的に知られるようになり、自動車道建設に伴い消滅する運命にあった古墳群も、遺跡の下をトンネルで通すことで保存が行われることになった。
 実際に塚原古墳群を訪れてみると、芝生がきれいに切りそろえられ公園化されたエリヤ内に、元の形に復元された各種の古墳が展開し、まるで古墳の展覧会に来ているようで楽しくなる。
 この様な塚原古墳群は何度訪れても飽きることはなく、いつも古墳群が変わらぬ姿で迎えてくれている様で、ここにいるだけで心温まる思いである。それと同時に先人が我々に残してくれた、これらの貴重な財産とも言える古墳群を、次の時代に引き継いでいかなければならないという、責務とも言える思いが沸き起こるのである。

1.太古から栄えた城南地域
 塚原古墳群の存在する城南地域は、古来より水が湧き出し、人々が住むのに適した地域であった様で、古墳群から浜戸川を約2㎞ 下ると川を挟んで、左岸の阿髙貝塚と右岸の黒橋貝塚(5000年前)が存在する。阿髙貝塚は大正15年に発見され、九州縄文時代を代表する阿髙式土器の標式遺跡であり、多数の人骨も出土している。
 また黒橋貝塚も、1972年の城南町を襲った大雨により、えぐり取られた水田の下から、縄文時代中期から後期にかけての貝塚が発見された。大橋貝塚と名付けられたが、この地域では少なくとも500年間にわたり人が住んでいたとみられる。
 最近、黒橋貝塚から状態の良い壮年の女性が、ひざを強く曲げた『屈葬』の状態で、土器や石器、食べたとみられる動物の骨などと共に出土した。周辺では過去の調査でも人骨などが見つかっており、阿髙貝塚と黒橋貝塚に分かれているが、元はひと続きの貝塚であったと考えられており、その広がりも20,000㎡以上に及び国内最大級の貝塚である事が分かった。
 阿髙・黒橋貝塚からは、ハマグリやカキ或いはスズキやボラと言った海水産の魚貝類に対し、御領貝塚では9割が汽水域で採れるヤマトシジミであったことから、この間に陸化が進んだことがうかがえ、環境の変化や人々の暮らしがよく分かる遺跡とされている。
 さらに、その左岸台地上に、総面積約4haと推定される九州最大級の御領貝塚(3000年前)が存在する。出土する土器は縄文を用いず、土器の表面を磨いた黒色研磨土器、『御領式土器』の標式遺跡として知られる。土器の他に石斧、石匙(せきひ)、石鏃、牙骨製道具、貝輪や土偶など多数の遺物が出土している。また人骨が発見されていることから、貝塚は単にゴミ捨て場ではなく、魂を送る葬送儀礼の場 所であったと考えられている。
 これらの貝塚は、熊本平野の南端に位置し、当時まだ熊本平野は成立しておらず、遠浅の海や干潟が広がっていた。その遠浅の海域も現在では、干拓も含め河口より直線で10㎞ 以上も内陸部に入っており、貝塚の名前は知っているものの、ここに貝塚がある事に気付く人は少ないであろう。なお現在熊本県で国指定の貝塚は、この2ヶ所だけである。

                       朝日新聞記事           筆者撮影

                             

                黒橋貝塚出土の人骨                          御領海塚


2.弥生時代の城南地域
 その後、御領貝塚を残した縄文人が、そのまま1.5㎞ 北に行った、宮地の弥生人へと発展していったことは、木原山北麓にあたる富合町木原や城南町宮地付近に、大規模な集落跡が残されていることでもうかがえる。
 なかでも城南町宮地の新御堂(しんみどう)遺跡は、この地域でも有力なムラの跡と思われ、400基を超える甕棺墓・木棺墓・土坑墓や500棟を超える竪穴住居が見つかり、集落の周りには環濠が巡っていたことが確認されている。このような集落を取り囲む環濠は日本の歴史上、戦国時代と弥生時代だけに見られるものであり、当時いかに戦の多い時代であったかを物語るものである。
 また新御堂遺跡にとどまらず、宮地遺跡群と呼ばれる様に、西の平野に向かって突出する台地の端で、広大な住居跡が発掘されるなど、宮地一帯の台地を埋め尽くすほどの人々が暮らしていたのである。そこからは、「台付舟形土器」や「巴形銅器」、あるいは中国新の新時代の貨幣である、「大泉五十」をはじめとした、弥生時代の遺物が多数見つかっている。これらの出土品は、一帯に弥生人の活動拠点があったことを物語ると同に、出土した中国貨幣から、中国や朝鮮半島とも盛んに行き来していた様子が窺えるのである。これらの出土品は塚原歴史民俗資料館で見ることができる。
 これにつづく、古墳時代の遺構が塚原古墳群である。この時期になると、それまで宮地一帯に大集落を形成していた集団の規模も小さくなり、沈目遺跡や沈目奥野遺跡で古墳時代の住居跡が多数発掘されていることから、城南町沈目付近にが移動したことが分かる。
 そして5世紀になると、沈目から浜戸川を隔てた対岸の塚原台地上に古墳が築かれ始めるが、古墳群内にも小集団の住居跡群(上の原遺跡)が存在することから、弥生時代の大集落から古墳時代になると沈目地域を中心としながらも、小集団で広範囲に点在していたことがうかがえる。
 なお塚原歴史民俗資料館の正門前に、上の原遺跡のものをモデルに、竪穴住居は5世紀前半、高床倉庫は、7世紀初めの住居と倉庫が復元されている。

         筆者撮影        筆者撮影     文化財総覧WebGISより                                      

         台付舟形土器        新御堂遺跡の青銅器       新御堂遺跡 周辺遺跡 

  

 3.塚原台地の方形周溝墓
 塚原台地に最初に築かれたのは方形周溝墓である。この位置から浜戸川沿いに広がる水田を望む事ができ、この最も見晴らしの良い位置に家族による方形周溝墓が造られた。この事は周溝墓群に葬られた人々により、浜戸川の開発が推し進められた事を示しており、当時浜戸川の本流であった、緑川の様な大河川の開発は技術的にも難しく、そのため支流であった浜戸川の開発から着手したのであろう。
   その方形周溝墓は、弥生時代前期から古墳時代前期にかけての墓制である事を考えると、突然の感は強く、その大きさも、最も大きいもので一辺27m、最小なものでも10~8mに達し、さらにそれらが群集して築かれているのは、団結力の強い集団であった事がうかがえる。なおこのような大型の方形周溝墓による集団墓はまれであるという。
 また塚原古墳群内の5世紀中頃~6世紀前半にかけての古墳の中には、39号方形周溝墓をはじめとした3基の周溝から馬の歯が出土している。そのうちの1基からは一緒に轡も出土しており、頭部を切断して置かれたとみられ、馬の埋葬がおこなわれていたと考えられている。

 5世紀の初めに列島に移入された馬は、一部の貴人が行事の際に乗る程度で実用より権威の象徴とされ、その馬の一部が塚原古墳群における、方形周溝墓へ納められたのは珍しい事例である。他地域では古墳の石室内にまで、馬の体を切り取って納めたものもあるという。
 馬を育て馬牧を営んだのは主に渡来人だと言われ、浜戸川流域にも馬を飼育するための渡来系の人々が暮らしていたのである。また塚原古墳群中、15号方形周溝墓からは朝鮮半島伽耶)で焼かれたと思われる、陶質土器(須恵器)の高坏(たかつき)が出土し、丸山32号墳からも中央アジア遊牧民が使用する、皮袋を模した「皮袋形土器」などが見つかっている。 

 これらの出土品などから、朝鮮半島との行き来の中で大陸や半島の文化が伝わり、この事が塚原古墳群に影響を与え他に見られないような、大型の方形周溝墓による集団墓へと繋がっとも考えられる。

 それにしても、今まで知っている方形周溝墓の築造年代としては、一般的に弥生時代から古墳時代初めであり、それが塚原の場合4世紀末と、始めて目にするものであった。そのため、これらの周溝墓を目の前にしたとき、どうしても突然に出現したとの感が拭えない。
 このような方形周溝墓の築造年代について、古墳群から浜戸川を挟んで1.3㎞北の、当時の住居跡跡(沈目遺跡)から、塚原古墳と同一の土器が出土しており、その土器のC14(炭素年代測定)結果は、西暦255年であった。そのため塚原古墳群における方形周溝墓の築造を、西暦255年まで遡るとする見解もある。(新・熊本の歴史(2)古代編より1,979年)。

            筆者撮影                             塚原資料館パンフ

                  

        方形周溝墓群       革袋形土器(丸山32号墳出土)


 4.時代の変遷による古墳の移り変わり
 塚原台地における古墳群は4世紀末~6世紀にかけて、約200年間に渡って築かれ続けたため古墳の数も多く、その間における墳墓形式も変化し全体で見ると解りづらい。そこで代表的な古墳及び古墳群内で、時代を大きく画すると思われる古墳を一つの画期としてとらえ、古墳群全体を年代的に区分けし理解しやすい様にしてみた。

 まず始めに、方形周溝墓が最盛期を迎えた5世紀前半頃、丸山2号墳に隣接する三段塚古墳、くぬぎ塚古墳、将軍塚古墳(丸山6号墳)など、直径30mを超える大型の円墳が台地北側一帯に現れた。
 これらの古墳は、方形周溝墓の規模をはるかに超えた、高い盛り土の墳丘(高塚古墳)や周溝をもち、古墳の内部には板石や川原石を使った、死体を安置するための石室が設けられている。また古墳からの出土品として、石室内から鉄剣や刀、よろい・鏃、銅鏡、勾玉・管玉など、周溝内から壺・かめ、高坏を主とする土師器が出土している。(大円墳の案内板より)
  その中でも丸山2号墳は、塚原古墳群中にあって唯一封土を残す、墳丘の平面形が方形になる方墳(24m×26m)である。周囲の状況や形態などから5世紀中頃の築造と考えられ、そこから県内では最大級の家形石棺(長さ2.4m、幅1.25m、高さ1.5m)が納められていることが確認された。
 内部はかなり壊されていたが、県内最大級の家形石棺は復元され、古墳頂上部からアクリル板越しに、古墳内部の家形石棺を見ることができる。この古墳は塚原古墳群の移り変わりや熊本古墳文化を考えるうえで貴重な古墳である。
 このように、それまでの方形周溝墓に対して、新たな多くの副葬品有する大型古墳の出現は、社会集団のなかに、新たな富の差が生じたことを意味しており、これらの大型古墳が築かれた5世紀前半頃をもって、塚原古墳群における一つの画期(第一の画期)とみることができるであろう。
 これらの大円墳や方墳と言った、多種多様な古墳が築かれていることは、古墳の変遷を考える上で重要なヒントを与えてくれる。それと同時に、朝鮮半島北部(高句麗)を起源とする大型方墳が築かれている事は、九州だけの問題ではなく、朝鮮半島や中国大陸を視野に入れた交流が考えられるのである。このような国際交流によるものとも考えられる墳墓形式が、塚原台地に各種多様な古墳群を生み出したのであり、この事が塚原古墳群の特色とも言えよう。

            筆者撮影         筆者撮影

          

         丸山2号の石棺       三段塚古墳 
  

5.大和との関係を示す前方後円墳
 北丘陵に築かれた大型円墳の一つに、高速道路トンネル出口付近に存在した、丸山6号墳「将軍塚古墳」(現在破壊)は、割石小口積みの横穴式石室をもつ5世紀中頃の円墳であったが、その主な出土品として8面の鏡の他、大和との関係を示す帯金式甲冑と鉄鏃(二段逆刺鉄鏃(やじり)が出土している。
 出土品の帯金式甲冑は日本列島独自のもで、大和王権中枢部の工房で盛んに製作され、王権に繋がる首長に配布されたため、列島各地の首長墓から出土しており、古墳時代中期の甲冑の特徴ともなっている。
 また鏃(やじり)の前後に「返し」を設けた、二段逆刺鉄鏃(にだんかえしてつぞく)も大和を中心に一部の地域で出土していることから、和王権から配布されたと考えられ、これらの甲冑や鏃の出土は、大和王権との強いつながりを示すものである。この様な大和王権との繋がりが、やがて塚原古墳群に2基(伝承では3基)の前方後円墳を出現させることになるのである。
  この様な大和王権との強いつながりを示す、将軍塚古墳が築造された5世紀中頃を、塚原古墳群における大型円墳の出現に次ぐ、第二の画期とみることができるであろう。
 さらに大和盆地から宇土半島に入ってきた前方後円墳は、5世紀の終わり頃になると塚原台地にも築かれるようになり、まず南丘陵に小円墳群や石棺群を伴うように前方後円墳の琵琶塚古墳が築かれた。この古墳は前方後円墳の中でも柄鏡式と呼ばれる、最も古い型式であるが、琵琶塚古墳の場合、前方部(柄鏡の柄の部分)の幅が広すぎ、柄鏡式とするなら初めて見るタイプである。
 前方後円墳は、王としての権力と地位を確立し大和王権に認められて、はじめて前方後円墳の築造が許され、それによる祭祀が行われた。そのため塚原台地に最初の前方後円墳である琵琶塚古墳が築かれた、5世紀終頃をもって最後の画期(第三の画期)とすることができるであろう。
 その後、古墳群の中では最も遅い、6世紀の終わり頃に二重の周濠(溝)をもつ総延長62.2mの花見古墳(6世紀後半)が築かれた。この大きさは三重の濠に囲まれた、全長486mの日本最大の前方後円墳である、大山古墳(仁徳天皇陵)の約100分の1の大きさであるが、塚原古墳群では琵琶塚古墳と並ぶ最大の前方後円墳である。(花見古墳の案内板より)その姿は古墳群中最も荘厳で美しくしい。
 この様に4世紀の終りごろ突如として出現した方形周溝墓が,やがて円墳や前方後円墳へ展開するようすを,同一の台地上で実際に見ることができる重要な古墳群である。

             筆者撮影         筆者撮影

                            

               二段逆刺鉄鏃                    琵琶塚古墳

 

6.筑紫磐井との関係を示す横口式家形石棺と氷川への移動
 6世紀初頭に築造された石之室古墳は、直径31m の円墳であるが、古墳主体部の横口式家形石棺の奥に、線刻模様が描かれていることから「装飾古墳」とされる。横口式家形石棺は、石人・石馬に代表される石の文化である石製表飾(きぬ笠・盾)を伴い、そのほとんどが筑紫磐井を盟主とする九州の西海岸に集中している。
 石之室古墳は、銀錯銘大刀が出土したことで有名な、玉名郡和水町にある前方後円墳の江田船山古墳と、石室はないものの石棺自体は同じ横口式家形石棺である。そして船山古墳よりも、石之室古墳の家形石棺の方が一回り大きい様である。その石棺も残念なことに2016年の熊本地震により、石之室古墳の家形石棺も大きく倒壊した。
  これ以外にも北原1号墳が横口式家形石棺であることから、塚原古墳群にも一定の影響を与えており、筑紫磐井を中心とした豊や肥国が、大和に対し弓引いた時(527年)、塚原古墳群を築いた人々も、火国の一員として何らかの動きをみせたのであろう。
 それを知る手掛かりとして、古墳主体部が横口式家形石棺でありながら、直径31m の円墳に止まっているのは、筑紫磐井に加担した事を暗示しているかの様でもある。
 ところで、火国に関する伝承として、『火の君一族の本拠地が南へ次第に移動していった』との説に従えば、城南町より南の氷川下流域(氷川町宮原)に遷り、そこを本拠地としたと考えられるのである。その事は、県内屈指の前方後円墳である野津古墳群が、かつてこの地が「火の君の里」であったことを納得させるに、十分な規模誇っているからである。
 この戦いにより、馬門石石棺を通じて大伴氏と繋がりをもった火の君は、敗戦処理の一環として、熊本県南部の葦北地方を大伴氏の献上することにより後ろ盾とし、それまでの城南町から、氷川流域へ遷ったと考えられる。
 そのため、野津古墳群が築かれ始めた6世紀初めに、塚原台地南丘陵の石之室古墳近くに、一群を成す小円墳がその事を示しているのであろう。しかし台地上に小型の円墳が築造し続けることから、一部を残しての移動であったと考えられ、それと同時に、氷川右岸の野津台地上に大型古墳が築かれ始めるのである。

 

          筆者撮影          筆者撮影

       

      石之室古墳の石棺         石之室古墳 
 
7.火国と呼ばれる理由
 火国の国名については、風土記に見える、海上と陸上とに現れた怪火に因るものと記されているが、実際には、氷川流域に移動したことにより海上交易へ進出し、勢力を拡大させ 6 世紀頃には熊本の政治の中心となり、そのため熊本を指して「火国」と呼ぶようになったと考えられている。
 それまでの筑紫に換わって、九州で最大の勢力となった火国も、こうして見ていくと、そのルーツはかつて益城と呼ばれた城南町が発祥の地であり、弥生時代において城南町宮地一帯の丘陵地に興ったのである。
 火国の発祥地については、この他に竜北町や宮原町が名乗っていたが、2005年に氷川を隔てて隣り合う両町が合併し新たに氷川町となった。これにより氷川右岸の野津古墳群が展開する、火の君の墓域であった竜北と、左岸の居住地域であった宮原が合併したことにより、火の君の本拠地としての本来の姿となった。
 そして、一見何の変哲もない町の様に見えるが、氷川地域の地形見ると戦いを想定した非常に良く考えられた配置となっている。まず4基の前方後円墳が存在する野津台地からは、現在のJRの鉄道線路辺りが当時の海岸線であった八代海や、それに続く陸路を一望することができ、戦いになれば人や船の動きも手に取るように見えたであろう。
 この眺望の良さから戦国時代に、これらの古墳を見張り台としたため、それぞれの古墳名に、「中ノ城」や「姫ノ城」といった、城がついているのである。この事は、逆に船や陸路から見れば、南北に一列に並ぶ大型古墳を目にすることになり、火の君の力の大きさを知らしめるのに役だったであろうし、またこの事が古墳群本来の目的でもあった。

 ところで、五木ダム建設に伴う五木村頭地地区での発掘調査により、縄文時代より氷川町と五木村を結ぶ交易道が存在していたことが明らかになった。この交易路の存在は、敵に攻められた場合、氷川沿いに五木村を目指せば、そこからは九州北部を始めとした九州各地に逃げることができた。この様に氷川町は戦いを想定して、選ばれた場所だったのである。
 また氷川町は、五木や五家荘で暮らす人々が、山で得た毛皮や染料をはじめとした交易品を氷川下流域へ持ち込み、そこで海産物をはじめとした山にない産物とを交換する、海の民と山の民が集う交易拠点でもあった。

             筆者撮影          筆者撮影

           

       中之城古墳からの眺望     氷川(氷川町宮原 )

8.火の君一族の墓域としての塚原古墳群           
 それにしても、一体これだけの古墳群に葬られた人物とは、どの様な人物が想定されるであろうか。この事を考える際に気になるのが、玉名の立願寺と並ぶ県下最古の寺院である陣内廃寺の存在である。時代は降るが、白鳳時代末期(西暦700年前後)に創建され、奈良時代に焼失するまでの約100年間、その威厳を保っていたと考えられている。 

 これまでの発掘調査の結果、遺構から推定して大規模な寺院であったことには間違いなく、火の君の勢力内の北限にあたる益城(城南町)に、これだけの大寺院を建立するための経済力を有する豪族と言えば、火の君を除いていないであろう。なお陣内廃寺は仮称で本当の寺院名は不明であり、現在は塔心礎のみが残るにすぎない。

 そして、この陣内廃寺はよく考えられた位置に建立されており、標高約30mの低台地の陣内廃寺から真西を望むと、塚原古墳群やその後ろの控える木原山(雁回山)を目にすることになり、ここから見る木原山の姿が最も美しく、この眺望の良さがここに寺院を建立させた要因の一つでもあろう。

 それと同時に、陣内廃寺が火の君一族の氏寺とするなら、陣内廃寺から見て「西方浄土」の方向に位置する塚原古墳群は、彼らの祖霊を祀る墓域であった事が考えられ、古墳群の中に築かれた、首長墓としての前方後円墳の存在が、その事を如実に物語っている。

 しかし、この時期になると、それまで国造として土地や民衆を支配していた豪族も、大和朝廷による新たな支配体制の中では、国司の下の郡司となり「肥の公」単独での大寺院の造営は考えにくく、奈良時代には、西海道を統括する太宰府の管理下で国府が設置された。従って陣内廃寺の場合も、出土した文様瓦(概ね3種)から、太宰府と強く繋がっていた事が分かっており、太宰府益城国府を背景として建立されたと考えられている。

 そう考えると、陣内廃寺は火の公ではなく、国府に付随する寺院であったと言うことになるが、国府や陣内廃寺の造営には、火の公も郡司として深く関わっており、陣内廃寺の建立場所についても、火の君の意向が強くはたらいたのであろう。この時代、寺院は豪族や一部の特権階級のものであり、一般民衆とは無縁のものであった。

           筆者撮影          筆者撮影

          

      陣内廃寺より木原山を望む    陣内廃寺の軒丸瓦3種

 

             あとがき 

 塚原古墳について調べているうち、かつて城南町に住む女性職員との雑談の中で、自宅の花壇に花を植えようと、土を掘っていたところ土器が出土したので塚原公園内の資料館に持っていった。と話していたのを思いだした。自宅の花壇から土器が出土するという、城南町の歴史的な奥深さを思い知ると共に、当時、多くの人々が暮らす地域であった事を改めて実感することができた。

 このような益城と呼ばれた城南町も江戸時代になると、この時代を代表する博学者の中に、『和名抄には益城郡国府とす。 今益城に府跡なし。 誤なり。』と、益城のあまりにも寂れた状況を見て、「和名抄に益城郡国府とあるが、こんな所に国府があるわけがない。書き違いである。」とまで言っており、奈良時代益城の繁栄を想像したとき、「灰燼に帰す」とは真に、この様な事を言うのであろうか。
 現在の城南町は、浜戸川沿いに水田が広がる純農村地帯で、かつて肥後の中心がこの辺りであったとは考えづらく、ただ熊本県最古の寺院跡である、陣内廃寺が当時の面影を残すのみである。