豊前海に面した川上の賊とは

土蜘蛛による古道の存在

豊前海に面した川上の賊とは

 



 

 

            賊の配置と古道

  

                   官道に先行する河川上流部の古道
  日本書紀(景行紀)に熊襲征伐と言われる、景行大王による九州遠征の記事が記され、その中でも特に、豊前海に面した主立った河川の上流部に、賊と呼ばれた勢力が存在した。しかし、その正体については不明な点が多く、そのためこの賊について考察してみることにする。なお、広辞苑では『賊』について、『ぬすびと、反逆をなす者、物事を害するもの』、などと記述されている。

  1.川上に居た四人の賊とは
  まず始めに、賊の正体を知る手掛かりとして、日本書紀の記述から見ていくと、四人の賊についての情報が、神夏磯媛により皇軍にもたらされていおり、それによると次のようである。
一、鼻垂は、菟狭の川上(駅館川の川上)に満ちあふれ、みだりに天皇の名を僭称して、      山や谷に人を大勢集めている。
二、耳垂は、御木の川上(山国川の川上)におり、残酷で貪婪で、しばしば人民を 略奪している。
三、麻剥は、ひそかに徒党を組んで高羽の川上(英彦山川の川上)にいる。
四、土折猪折は、緑野の川上(紫川の川上)にこもり住み、ひとり山川の険阻な 所を頼みとして、多くの人民を略奪している。
                               

                                             蜘蛛の勢力範囲図

                                       

 これらの記述から、四人の賊の共通点として、彼らが本拠地としていたのは豊前海(周防灘)に面した、現在の一級河川の上流部に位置し、地形上から守りに徹した要害の地となっている。  そして彼らは、その地域の長(おさ)となっており、いずれも『皇命には従わない』と言い、反大和朝廷という点では伴に共通した集団であった。
 この時期、九州はまだ大和王権の勢力下になく、北部九州を中心とした伊都国や奴国と言った、従来からの権威や秩序による連合政権が存在し、賊と呼ばれた勢力もこの様な連合政権の一員であった。そのため新たな勢力としての大和朝廷の九州上陸に対し、『皇命には従わない』と言ったのも当然であろう。
   また神夏磯媛から賊と呼ばれたものの、その勢力は豪族にも匹敵するものであり、彼らを容易に殲滅することはできなかった。そこで一計を案じ、まず麻剥の徒党をだまし、赤い上衣と袴(はかま) や種々の珍しい物を与え、併せて帰服しない三人を招き、それぞれが徒党を引き連れやってきたところを、一網打尽に殺害したというものである。   
 この様な権謀術数は、これまでの列島内ではそれまで考えられなかった戦術であり、古代中国の長い戦いの中から生み出されたもので、それを身に付けた皇軍とは、中国大陸から大和に渡来してきた移住民であることが考えられる。そう考えると初期大和政権が短期間に西日本一帯を勢力下におくことができたのも、中国大陸から持ち込まれた権謀術数によるところが大きかったのではなかろうか。

2.各地に居た賊の居住地
  これらの四人の賊は、それぞれの川上に居ると言うだけで地名は記されておらず、そこで具体的な居場所について見ていくことにしよう。 まず四人の中で、神夏磯媛から最初に 賊と名指しされた鼻垂から見ていくと、鼻垂は菟狭の川上(駅館川)に住んでいたことから、宇佐の川上と言えば安心院盆地であり、北部九州へ移動する場合、ここが陸路(道)の出発点となる。なお安心院は大分や別府方面から北部九州に向かう際の出発点となる。
また宇佐津彦が神武天皇一行を持てなしたのも、ここ安心院である。
 次の耳垂が住んでいたのは、御木の川上(山国川)であり、山国川中流域から上流部にかけ、幾つもの支流に分かれまた耶馬溪に代表される奇岩が連立しており、そのため江戸時代になっても交通の難所となっており、そのため青洞門が個人の手で掘削されたほどであった。この様な地形が広範囲に広がっているため、耳垂が本拠地といた場所を指定するのは困難である。そこで耳垂が住んでいたとの伝承が残されている『かまどヶ岩』を御木の川上としたい。

                      

                    妻垣神社                      かまどヶ岩

 御木の川上の次は、高羽川の上流にいた麻剥であるが、高羽川と言えば彦山川を源流とし、田川市添田町貫流する彦山川のことである。しかし、ここには英彦山に関する伝承は多く残されているものの、麻剥に関する伝承等は皆無と言っていい。そのため弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が集中している、西添田駅(日田英彦山線)一帯が考えられ、従ってここを耳垂の居たところと考えよう。そして、四人の中では最後となる土折猪折は、緑野川の川上、即ち緑野川は平尾台を源流とし北九州市小倉区を貫流する紫川のことであり、ここを拠点としていたのである。この『緑野川』の名の由来は、『血みどろの川』からきているとの伝承があり、これを裏付けるように、この川の中流域から上流域かけて、多数の環濠集落跡が発掘されている。

                        

                       西添田駅              青龍窟
                                   
 そして平尾台には縄文時代から古墳時代にかけての多くの遺跡が遺され、なかでも土蜘蛛伝承の遺る、青龍窟を土折猪折のいた場所と思われる。そして清流窟を下れば当時の豊国の中心地であった長峡県に繋がり、古代の市場であった海石榴市や、海路で物資の路移動のための草野津の存在は、賊と呼ばれる集団のいた豊国の各地と長峡県とを結ぶ交易路の存在を感じさせる。そして陸路を利用した場合の、宇佐地域から長峡県け繋がる古道の存在は当時、重要な交易ルートとしての役割を果たしたであろう。

 3.別の角度から見た賊の姿
  ところで、今見てきたような賊と呼ばれた集団について、別の角度から見るとまた違った姿が見えてくる。人々の行き交う当時の陸路(道)は、橋を架ける技術がまだ発達しておらず、川幅の広がった河川下流域での渡川は危険であり、川幅の狭くなった河川上流部を渡っていた。また海岸部の道は人目に付きやすく、盗賊などのリスクが高くなるが、川上の山中を通過する道はそれに比べ安全であった。
 そのため当時の豊国における主要な道が、川の上流部の賊と呼ばれた地域を、結ぶように川上の内陸部を通過していたが、官道ができる遥以前の道であり自然の地形に従った、曲線や高低差の多い山道であったと考えられる。

 そのため、これらの賊(道主)と呼ばれた集団は、互いに20~30㎞の間隔で集落を形成し、この間隔は江戸時代に一日で歩ける距離が30㎞~40㎞程度であったことを考えると、賊と呼ばれた集団間を一日で移動できる距離のように見える。
 そう考えると、これらの集団とは渡川に伴う危険を避けるためや、あるいは河川上流部の、支流による道に迷うのを防ぎ安全に通行するために川上に住み、人々が安全に通行できるよう道案内に携わる人々であったとも考えられる。安全な移動だけではなく宿営地の提供など、人の移動に伴う活動に携わる集団であったとも考えられる。
 また河川の増水に伴う宿営地での長逗留を、『しばしば人民を略奪し』との記述に繋がったとも受け取られる。従って、彼らは独自の集団ではなく、互いに連携し合い旅人の安全を確保する目的を持った、道に携わる道主とも言える集団であった。
 この様に考えると、日本書紀の記述とは全く異なる集団の姿が見えてくる。しかし彼らは旧来からの北部九州を中心とする政治連合に属しており、大和王権側から見ると王権に従わない集団、即ち賊であるという事になったと考えられる。

 ただ実際の古道での移動には、山々が幾重にも重なり簡単ではなく、実際の移動距離も直線距離より長く高低差もあったであろう。またどの様なルートで設置されていたのか改めて検証する必要がありそうであるが、その形跡を見つけるのは困難であろう。なおグーグルマップで拡大して見ると、確かにそれぞれの地点を繋ぐ道が存在する事は分かるが、当時存在したか不明である。

                                                        

                     山国川下流域            上流域(耶馬溪)青洞門      

4.馬の登場に伴う交通網の整備

 その後、これまでの川上を結ぶルートから、人々が集団で暮らす地域を繋ぐルートへと替わっていったが、5世紀になると馬の登場により、乗馬や公の儀式の他に物資の移動にも用いられるになった。そして馬を伴うようになると、当初は道幅や平地と言った限られた地域での使用であったが、馬の使用の増加に伴い道路の改修や交通網の整備が進められていった。 

 そのルート上には、この時代を代表する古墳が遺されており、この古墳の築かれた所を繋ぐことにより、この時代の豊国の古道を再現することはできないだろうか。これについて、後期古墳のなかでも横穴石室に大型石室を持つ古墳は、官道における馬屋や官道施設に関係する人物のものと考えられる。との先達の研究があり、死後も馬と一緒に馬屋をを守る事を願い、石室を大きくとったのであろうか。 

 調べてみると、当時の香春の地は、官道が交わる交通の要衝であり、香春地域を通過しなければならず、これらの香春地域に設置された、馬屋に関係した人物の奥津城が、下に掲載した「駅路と伝路推定図」から分かる。即ち、延喜式以前の香春駅に関する古墳が、40基の古墳群(赤く囲んだ地域)からなる夏吉古墳群であろう。

 古墳群のなかでも 1、21号墳が市史跡で、1号墳は横穴式石室の全長8.2m、高さ5m、21号墳も横穴式石室が全長12.5m、高さ2.88mと群中最大規模である。この様に横穴石室は何れも大きく、このことから 1、21号墳の被葬者は香春駅屋に関係する人物であったことが考えられ、古墳の大きさからして駅家を管理する人物に対し、高位の官職が与えられていたのではなかろうか。これらは何れも、6世紀末~7世紀初頭に築かれたものである。 

 その後、7世紀後半になると白村江の敗戦により、諸国の国府と中央の宮都を直線で結ぶ官道の設置が急務となった。そのため中央政府により軍用道として或いは律令制度に伴う連絡網としての官道(公共道路)が、新たな企画に基づいて設置され、道幅9~10mで要所には16㎞ごとに駅家(うまや)が設けられた。 その後、律令制下(奈良・平安時代)になると、大宰府と奈良を結ぶ"大宰府官道(田河道)としてその重要性は増し、香春神社の社格が非常に高い事からも、大和朝廷が重要視していたことがうかがえる。 

               福岡県田川市の古墳より

           

          夏吉21号墳         夏吉1号墳

 5.香春の馬家を中心とした交通網

この地域は田河地域に渡来してきて最初に住み着いた所で、岩屋を始めとした伝承の地でもあり、香春一ノ岳の西側に当たる丘陵地である。ここからは田川市を望むことが出来、田河を北に行けば遠賀川に沿って、鞍手郡やその先の水巻方面に移動することができた。また香春一ノ岳の東側を金辺川に沿って北上すれば、平尾台や企救の郡に繋がっていた。

 そして南に下れば、添田を通じて豊後国安心院)や日田方面へ抜ける主要な道路が存在していた。この事は駅屋が設置されるようになっても、耳垂や鼻垂の時代の古道が、形を変え官道として機能していたことになり驚くべき事である。

 これらの官道とかつての古道との関係を見いだすことは、両者の設置目的や目的地が異なるため困難であるが、豊後道についてみると、古道と官道(豊後道)とがに共に安心院を通過していることから、古代から律令に至るまで交通に要所に当たっていた。その事が神武天皇東征の途中おける安心院での、菟狭津彦のもてなしに繋がり、また安心院という交通の要衝の地に対する権威付けにもなったであろう。

 その後、延喜式(905年)に記されるようになると、豊前国府と太宰府と繋ぎ、香春を東西に走る官道(田河道)が設置され、太宰府から東方に進んで田河駅・多米駅を通って豊前国府・宇佐駅に至るルートである。この様にどこに移動するにも香春駅屋を通過しなければならなかった。         

                        

                          

            駅路と伝路推定図    

 6律令時代の豊国の官道  

 具体的に見ていくと、律令時代の豊後国の官道には、主要官道として豊後道と豊前道が存在し、豊前道は、豊後国府と遠の朝廷と呼ばれた太宰府を直結する道で、起点は豊後国府(大分市国府)の高坂駅から速見郡由布駅、次の駅は玖珠郡新田駅、そこからさらに日田群の石井駅を経て太宰府に向かう、山間部を最短距離で繋ぐ官道である。

 それに対し豊後道は、豊後国府と豊前国府(京都群みやこ町)を通って太宰秘へ向かうコースであるが、豊前国府までは豊後国府の大分市から長湯駅(別府市)を通って安覆駅(安心院)に抜け、その後宇佐駅宇佐市)から下毛駅(中津市)と、現在の国道10号線と同様に海岸沿いに北上するルートである。

 延喜式(905年)に記されるようになると、官道が現在の国道10号線と同様に、海岸線にに沿って北上しており、川上の古道と大きく変化している。この事は北九州へ向かう道が、時代と共に川上から河川中流部へ、さらには下流域を通過するコースへと移り変わっていった事を示している。この様な古道の川上から海岸部への移動は、何も豊後道だけに限ったものではなく、肥後の西海道についても同様に、時代と共に古代道のルートは海岸線近くへ移動していった。

                       購読新聞より
            

      官道の発掘状況(熊本市)    発掘現場の説明図

7白村江の戦いが列島に与えた影響  

 話が変わるが、古代の官道であった東海道が現代の高速道路と重なって設置されているのを、図上で見たときその驚きは大きかった。現在に様な正確な地図や測量器具のなかった時代、最短距離でこのルートを選んだ事はまさに驚嘆に値する。

 おそらく、これだけの知識や技術力を有する知識人といえば、白村江の敗戦に伴う百済からの亡命渡来人が考えられる。彼らにより九州太宰府の『水城』を始めとした各地の山城が築かれ、これと平行して、まず最重要道としての山陽道が、渡来人の指導の下で進められていった。その後、律令制度の進展に伴い、各地と朝廷を繋ぐ官道が整備されていったが、これについて日本書紀は一言も触れておらず、語れない理由でもあったのだろうか。

 この様に見ていくと、白村江の戦いは敗戦という悪い印象を持ちがちであるが、今見てきたように列島にとって悪い事ばかりとは限らないようである。敗戦により、それまでの農民を中心とした渡来から、王族や貴族を中心とした多くの知識人の亡命により、見てきたような官道の設置や水城と言った先端技術の移転繋がった。また文化的な面でも、それまで宮廷内だけで使用されていた漢字が、中央と地方との連絡に用いられる様になるなど漢字の使用が一般化した。

 また国境線で見るなら、この戦いがあったからこそ対馬が日本に属することになったのであり、余り知られてないが、唐との敗戦に伴う和解事項として、20年に一度唐に朝貢することが定められた。そのため列島からの留学僧(朝貢使節)が20年毎に入れ替わる事になったが、それが幸いし唐の制度を持ち帰るなど律令国家の発展に大きく貢献することになった。

 なお日本書紀には唐との和解い事項、あるいは邪馬台国卑弥呼や5世紀の『倭の五王』による、中国王朝に対する朝貢記事等、倭国が卑屈になるような記事は一切記しておらず、この事からも日本書紀が編纂された目的の一端が透けて見えるような気がする。

 このように見ていくと白村江の戦いが、それまでの倭国から新たな日本建国に繋がる大きなターニングポイントであったことが分かる。この事は何も古代だけでなく、1945年の敗戦に付いても言えることであり、日本にとって、どのような影響を及ぼしたかを知ることが即ち歴史を学ぶということではなかろうか。 

          

           水城大堤東門跡と官道(福岡市太宰府 

9.あとがき

 今回、川上の賊を中九州と北九州を結ぶ、古道における道主ともいえる存在であったと書いたが、この事は川上の賊を調べている時どこかで目にした記事である。しかしその時は気にも留めなかったのであるが、改めて考えてみると十分あり得る話であり、むしろ道主と考えた方が正解なのではなかろうかと考える様になった。

 それでこの点について整理してみると、古代において中九州と北九州を結ぶ古道が、河川上流部に存在した。この古道は、宇佐と北九州を繋ぐだけではなく、中九州の大分や別府あるいは臼杵と佐伯と言った広範囲な地域から、当時の中心地であったの長峡県への移動の際に用いられた主要な道であった。

 そのため宇佐からと大分方面からの合流地点に当たる、安心院に鼻垂を長とする、最初の宿営地が設営されたのである。この事は後の律令時代になっても、安心院の重要性は変わらず、そのため『遠の朝廷』である太宰府に向かう際の官道(豊前道)に、安 覆(安心院)駅が設置されたのである。

 当時物資の移動には舟による海路が中心であったが、人の移動には主に陸路が使用され、そのため陸路の安全性からも彼らの存在は欠かせないものであった。ところが大和王権による九州平定に伴い、戦いのない社会がおとづれると、それまでの川上の古道から次第に海岸部に近い場所に道が設けられるようになった。

 このように見ていくと、日本書紀の記述をそのまま鵜呑みにするのではなく、多面に渡って考察するなら書紀の見方も変わり、川上にいたとされる集団の本来の姿が浮かび上がってくるのではなかろうか。そうすることにより、当時の社会状況の一面を垣間見る事ができるのである。